お母さんいまどこに・・

今年初めに母親を自死で亡くしました、最後に電話で話したのは娘の私でした。

母の誕生日

自宅に帰っても捜索出来ないもどかしさ、気持ちは落ち着かなかった。どこへ行くにも携帯を離さず人と会うのを避けたかった、実家に居るとき以上に妄想は膨らむばかり、相変わらず眠れず食事は1口。




しかも今日は母の62歳の誕生日、いつもならプレゼントこそなかったが電話は欠かさなかった、でも母がいない。いてもたってもいられず警察に電話、その後目撃情報などないでしょうか?いろんな事を聞いた、言った。警察も母の件ばかり捜査出来ない、わかっている、わかっていたけどやるせない、冷静さがなくなっていた。




弟が結婚して母は10年入院しなかった、かわいい孫、誕生日にはショートケーキをもらっていたらしい、穏やかな日々幸せだったのだろう、入院しなかったらこうならなかったのかいつものように幸せな誕生日を過ごせたのかな。




何もしないと落ち着かず、泣きながら喪服を用意した、いつでも帰れるように荷物も準備した。母の誕生日に葬儀の準備、考えてみれば昨年はいつもより帰省して母に会っていた、年末もいつもより長めにうちのほうに帰っていた、何度か外出もして大晦日には母の希望で紅白を見るために外泊した。この頃になると退院したいがすごかった、また入院したら誰も会いに来てくれないって焦っていたのかな。




大晦日病院から実家に母を送って


またねって声を掛けた。


母にかけた最後、最後の言葉


お母さん


またねって言ったのに


もう会えない、会えないね。

この海のどこかに

次の日の朝ようやく船を2隻出してもらえた、私が乗船準備をしていると姉ちゃんは乗せられない、長時間になるだろうし船酔いやトイレの事、そしてまだ小さな息子がいる私に何かあってはいけないと、弟が友達に頼んで乗ってもらった。船を見送ると海岸を歩いた、いろんな物が流れ着いていた時々止まって海を眺めた、お母さん会いたい今どこにいるの…


午後から海が荒れるらしい、捜索は午前中で終わった、昨年4月に亡くなった方が県外の沖合いで発見されたらしい。


今日で1週間、夕方になり弟がこれ以上の捜索は無理だと話した、母が居なくなってから自営の会社もまともに稼働していない、仕方ない。


私は諦めたくなかった、それから5日間毎日堤防から海へ、海岸、港、干潮になると川沿いを雨靴で歩いた、時々腰掛けて1人で泣いた、母が居なくなってから人前では泣かなかった、皆が困るから私がしっかりしなくてはと思っていた。


実家に帰省して2週間が過ぎた、弟が見かねて話してきた、俺も合間を見て母を探している、探し続ける、だから1度うちに帰ったほうがいい、何かあったら連絡する。あれから相変わらず寝たか寝ないかわからない日が続いていた、食事もとれず持ってきた服がゆるくなっていた、息子は寂しいと泣いた、1度自宅に帰ることにした。

焦る気持ち

案の定、夜から雪は降り出し夜が明ける頃には外が真っ白になっていた、船は出せなかった。それでも何もしないでいられない、雪道に慣れていないがいつものように堤防から海に、この日から海岸や港、橋の上、双眼鏡片手に雪の中を探し続けた、不思議と寒くなかったそんな気持ちをもつ余裕すらなかった気がする。


ここから伝えることはかなり辛い話になります、ご了承ください。


今日で1週間精神的にも肉体的にもきつかった、もう探せる場所が見当たらない。川しかなかった、もし身を投げたのならそろそろ浮かんでくるらしい、時間は残酷だ。しかしこの寒さで予測が出来なかった、すぐ海に流れ着くというひともいれば、沈んでいるというひともいた、どの人が言うこともそう思えた、ただ1度浮き上がるとまたしばらくして沈んでしまうのでそうなるともう見つからない、あまりに残酷な話で言葉を失った。現に見つからないまま葬儀を済ませ、お墓を建てる事は珍しくないらしい、信じたくなかった。


いろんな事が頭をかけめぐる、もしかしたら誰か連れ去ってどこかで生きている、もしかしたら山に置き去りにされた、警察にも聞かれたが母を恨んでいた人は居ますか?1人だけ思い浮かぶ人が居たでも言わなかった。


ここ最近外泊時に母がしてしまった事で弟以外は母のお見舞いに行かなくなった、薬を変更したのが悪かったようだ、2年前に祖父を亡くした、母からすると唯一心から心配して家に訪ねてくれる父親だった。それから1年後母が敗血症という病気で倒れ医者から今飲んでいる薬の副作用と言われた、10年ぶりに母が精神科に入院する事になった、それからだった、弟はその事を母に問いただし責めた事もあった、仕方ないと思った、だけど母をそんなにせめないで欲しい、私が娘だから甘いのだろうか。お見舞いに行かなくなって4ヶ月、最初の2カ月は私が帰省して外出させ家の掃除、母のお風呂、2人で母の好きなたこ焼きを食べた穏やかだった、今考えても本当に穏やかな時間たった5時間の外出、別れ際母は泣いた、私も泣いたまた帰ってくるからねと言うのが精一杯だった。2度目の時は面会に行くと車椅子で面会室にきて私に敬語で話しかける、薬が強すぎるのではないか看護婦さんにたずねる、あんな事があったので前の薬に変えて欲しいと弟が言ったらしい、辛かった。それから2カ月帰省する事が出来なかった、思い切って弟夫婦に外出を頼んでみた、弟はわかったと言ってくれた。迎えに行くと母は泣き崩れたという、もう誰も会いに来てくれないと思っていたらしい。今書いていても泣いてしまう母が不憫だった。それから何度か外出したらしい、でもそのたびに病院へ帰りたいを繰り返していた、きっとまた同じような事をして迷惑をかけるのが怖かった辛かったのだと思う。


明日は船を出してもらえるだろうか、捜索のために作った母の写真を載せたチラシ、私が買ってあげた洋服を着て靴を履いていた、切ない、母が見つからない、何も出来ない、自分が無力だと責めた。