お母さんいまどこに・・

今年初めに母親を自死で亡くしました、最後に電話で話したのは娘の私でした。

母に会いたい

母を見つけられず暖かい布団でやすむことが苦しかった、ためらわれた、寝たか寝ないかわからない夜が明けた、お母さん夕べはどこで過ごした?お母さん会いたいよ。


母が居なくなってからずっと寒い日が続いていた、昨日の堤防の事を弟や叔父に話したが弟はそんな勇気は絶対ないと否定した、ここ数年調子が悪いと時々死にたいと言うことがあったみたい、でも居なくなったりそんな事はこの40年1度もなかった、本当になかった、だからわからないよ、どうして…


今朝も堤防に行った川の流れに吸い込まれそうな気持ちだった、それから毎日自宅前の堤防から海まで母を探し続けた、それが終わると近所の雑木林、用水路、畑、きりがなかったそれでも諦めない、母を見つけるまで。


消防団、消防、警察が公務で捜索をしてくれた、堤防の私の話をもとにボートを出して川も捜索してもらった、でも見つからない。


実家は夜になっても電気をつけたまま母が帰ってくるのを待っていた、2日目もあっという間に過ぎた、夕方母が居なくなったであろう時間に1人堤防に行く寒さで座っているのもきつい、お母さん階段を降りながら私の事、家族の事考えてくれた?私が悲しまないと思った?辺りはすぐに暗くなっていった、母の寂しさを悲しさを思い1人泣いた。

10分

母と最後に会話したのは娘の私、たった10分間の会話だった、あれが最後の会話になるならずっと切らないで母とたわいのない会話を続けていたかった、母を大好きだって言ってあげたかった、育児に忙しいであろう私のことを思ってかあまり電話をしなかったのだろう、時々息子の歌を聞かせてほしいと電話してくる時があった、息子のつたないキラキラボシを聞いてたいそう喜んでくれた、結婚して15年目に授かった息子、あの時いつものようにどうして息子と話をさせてあげなかったのだろう…そうしたら母の気持ちが辛さが幾分でもやわらいだかもしれない、後悔しても悔やみきれない。


警察に捜索願いを出すと母はもちろん、自宅も捜索された事件性がないかの確認なのか、母の大事なものをしまう引き出しに私が出したいつかのハガキがしまってあった。なかなか会えない息子の写真をのせたもの、時々引き出しを開けては見てくれていたのか、胸が締めつけられる思いで声を上げて泣いた。


家族も事情聴取される、母の生い立ち、21歳で結婚、酒乱に女癖の悪かった父とは弟を妊娠中に離婚、母の友達と居なくなったからだ、私が18歳の時に亡くなった。家族3人で祖父母とは車で少し離れた所に暮らしていた、母子年金のせいだったのか慰謝料なんてなかった、祖父母は私達姉弟の面倒は見てくれたが母を甘やかしてはいなかったと思う。母子家庭のうちにはイタズラ電話や夜中に玄関を開けようとする人、お風呂を覗き見ようとする人、嫌がらせが耐えなかった。母1人で本当辛かった、強かったと思う。母がとんでもないことをしたのは2回、最初は私が中学生の時強制入院した、2回目は去年の夏、入院していた病院から外泊中、夜中に即入院。よくテレビでニュースが流れる、家族に病の人が居ると他人事のように思えなかった。病気のせいで人に迷惑をかける事もあった、昔は祖父母が謝罪してくれた、でもだんだん年を取る成人した私達の番になってくる。私にも土下座に近い謝罪をした経験がある。近所には何件か家がある、しかし母の病気を知ってか皆疎遠だ、1度近所の川にゴミを捨てて注意された事もあった。最近では母も年をとったせいか自分がしたことを悔やむ傾向があった、私達に迷惑をかけていることを気にしていたのだと思う、迷惑かけても良かったんだよお母さん、それでも元気でさえいてくれたら。


余談になったが警察の人が私に問い掛ける一緒に生活したのは23年、はっきり言わなかったが言いたいことはわかった。結婚して帰省出来たのは年に数回、母に対して愛情はありますか?だから答えました、小さいとき寒い夜になると家族3人体を寄せあって寝ました、母は決まって冷たくなった私達の足を自分の太股であたためてくれ風邪をひかせまいと布団をかけてくれました。


それから私は1人ある場所に行った、母が靴を履いて向かった場所そこは実家の目の前にある堤防、海につながる大きな川が流れている、家から100メートル足の悪かった母でも靴を履けば行けた。階段を降りると土手1メートル下は川が流れていた、あたりを見まわすと1カ所だけ草が川に向かって倒れその下の苔がはがれ落ちていた、母が滑った降りた跡だろう。間違いないと思った、この寒空服を着たまま落ちれば健康な人でも助からない、水を触れば思いとどまっただろうに、1人泣き崩れた。


母が居なくなって1日目母への希望は絶望に変わった。

母の性格

お昼になって親戚に少し休んだ方がいいと呼ばれた、お昼ご飯なんて食べてる場合じゃない、そんな気分だったイライラしていた思わず言ってしまいそうになった、だけど睡眠不足と歩き疲れでひどく喉が渇いたので温かいお茶を飲んで少し休んだ。


母は几帳面な人だった、病気のせいか料理と掃除はあまりしない人だったが出掛ける時はお気に入りの赤いカーディガンをはおり、スリッパではなく靴を履く、テレビ、こたつ、エアコンもきちんと消していく。それが普通なのかもしれないが病気の母をずっと見てきた姉弟にとってそれはとても几帳面な母に思えた。


そんな母が財布も持たずテレビもエアコンもこたつも付けたまま靴だけを履いて居なくなった、布団はまだ温かいままで。


娘の私には靴を履いた母の覚悟がわかったような気がした、どこへ行ったかわかったような気がした。