お母さんいまどこに・・

今年初めに母親を自死で亡くしました、最後に電話で話したのは娘の私でした。

通行止め

大雪の予報をうけ夕方1人で明日の買い物に出掛けていた、レジでお会計間近めったに連絡をしてこない弟から電話がきた「お母さんが居なくなった」行きそうな所は探してみた、これから警察に届けをする。頭の中が真っ白になってどうやって会計したか帰り着いたかよく覚えていない、ただ実家に帰らなくては母を探さなくてはと焦る。


予報のとおり外は雪が降り出していた、そんな事は関係なかったはただ早く早く…

どう準備したかわからない、とにかく家を飛び出した、小さい子供が居るので毛布だけは積み込み数日分の着替えと防寒着をもって、予報どおり山間部の雪はひどく高速道路は通行止め、実家に着いたのは夜が明ける頃、一睡もしなかった。


あれから寒空の中、消防、警察、近所の方、他にも親戚いろんな方が捜索してくれたらしい、弟も一睡もせず探していた。目も悪く足の弱かった母そう遠くへは行けない、早朝の近所を迷惑も考えず、お母さんと叫びながら探して歩く事しか出来なかった。

大雪

これから私が伝えることは時に気分を害する内容もあるかもしれません、ご了承ください。忘れゆく母の最後の記憶を残したくこのブログをはじめます。


明日は大雪と予報が出ていた寒い日。

母が退院したが病院に帰りたいようだと連絡があった、退院していた事を知らなかった私はまず声を聞きたかった、またわがままを言って困らせているといつものように母に電話をした、年末に会ったきり久しぶりに聞く母の声、寝ていたのか少し違和感があった今思うと泣いていたのだと思う、でも母はそんな事一言も言わなかった、そんな母親らしい優しい母だった、やっぱり調子が悪いのであろうこの寒さでは無理もない、その時はそれで納得していた。


ご飯食べた?買い物は?お風呂に入った?そちらも寒いのか、壊れていたドライヤーはどうした、そんなたわいのない会話をした、でも母は家は落ち着かない具合が悪い病院に帰りたいと言っていた。私は退院したばかり熱があるのでは?体温計ではかってみては?明日病院に連れてくと聞いた、明日まで頑張ってみんなを困らせないようにっていつも母に言ってきた言葉、でもそれほど残酷な言葉を私はずっと母に言ってきたんだ。


遠くに住んでいると何もしてあげられない、病気だから仕方ない、どこか慣れっこになっていた、病気の事も理解していたつもりが全然できていなかった。


母は21歳の時に私達姉弟を年子で産んだ、弟を妊娠中に父親が母の友達と仲良くなり離婚、それから心が病み私達は一緒に住んでいるものの高校を卒業するまで祖父母に育てられた。だからこの40年母がどんな様子でどんな病気か理解していたつもりだった。


まさかあの電話が最後になるって思ってもいなかった。